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吉 村 ゆ う こ |
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【 山 口 】 大字名の由来
山口という地名は、葛城山への登山口の一つとなっているところから名付けられたものと考えられます。 文禄4年(1595)の「大和国忍海郡脇田ノ村御検地帳」には「ヤマクチ」の集落名が見え、脇田村に含まれていたことがわかります。山口村として独立したのは、寛永10年(1633)年旗本の佐久間氏領となったころと思われ、「寛永郷帳」に「山口村」と記されています。 村として独立したのは江戸時代のはじめですが、人々が行き来しだしたのは古く、約1500年前の古墳時代にまでさかのぼります。集落の西には5世紀末から7世紀はじめにかけて古墳が密集してつくられた山口千塚古墳群があります。 少ない川水を平等に分配する、もど川の分水石(ぶんすいせき) 奈良盆地を流れる川は流路がせまく小さな川が多いため、降った雨はすぐに海に流れ出てしまい、田畑を潤すには充分ではありません。そしてそれは、降水量が少ない年はかんばつを、逆に梅雨や台風で集中的な降雨があった時は洪水を引き起こす原因になっていました。
そんな自然条件のもと、奈良盆地の農民たちは少ない川水を効率よく利用しようと、知恵をしぼり、努力をかたむけてきました。そうして生まれたのが盆地のあちこちに点在するため池であり、番水・分水石などの川水の配水システムでした。
葛城山から流れ出るもど川と呼ばれる川があります。この川水の引水権を持つ村に小林(現御所市)と山口・梅室・脇田・馬場・笛吹・平岡・南花内・西辻・林堂(現葛城市)の10村があり、小林から平岡までの7村を上郷、南花内以下の3村を下郷と呼びました。天正年間(1573〜92)にこの地方を襲ったかんばつの際、上郷・下郷の水利組織を一体化し、10村による番水制度が天正18年(1590)から始ったとされます。 もど川に置かれた分水石の一つが山口の鎌取井堰かまどりいせきです。葛城山から流れ出た水はこの分水石で三つの流れに分けられて上郷・下郷村々のため池を経て、夜水・昼水や二十日水・十日水などと呼ばれるこまかな手順にしたがって、効率よく郷内の耕地にいき渡るように決められました。 もど川流域に住んだ人々は「我田引水」を自制し、話し合いの中で利害を調整し、少しでも豊かな生活ができるようにと努力を積み重ねてきたのです。 (広報「かつらぎ」2006年8月 Vol.23)
《 藩略史 》
出典: 奈良文化財研究所 飛鳥資料館倶楽部
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