【 脇 田 】 大字名の由来
脇田の名の由来ははっきりしませんが、鎌倉時代の史料には奈良興福寺一乗院門跡領の「脇田庄」と記されているところから、七、八百年前からその名がありました。
千載一遇の祭典「遷座祭せんざさい」
■4月29日の夜、脇田神社で「遷座祭」(御神体を移動する祭典)が、厳粛に行われました。
当神社では本殿が老朽化しており、約160年ぶりに建て替えが行われました。新しい本殿が建築されたのを受けて、今回元の地に「御神体」が遷されました。
■同祭事では、「お〜」という長い声がこだまするなか、神職と氏子が真っ白な布(絹垣)で囲まれた「御神体」を移動させました。この声は「ケイヒツ」と呼び、神の存在を周囲に知らしめるものであると言われています。
「御神体」が新しい本殿に納められると、祝詞に続いて参列者代表の玉串奉奠ほうてんがありました。
■巽区長は、「遷座祭は百年に一度しかない祭事とも言われています。そのような祭典に立ち会うことができ感動しています。この祭事のことを子孫に伝えていきたい。」と語られていました。
出典: 広報「かつらぎ」平成18年6月
地光寺跡−地光寺東遺跡、地光寺西遺跡上
■山麓線脇田の交差点付近に、地光寺跡があります。一九七二年に行われた発掘調査の結果、地光寺は東西2つの遺跡に分かれることがわかりました。方位にあわせて脇田側が地光寺東遺跡、笛吹側を地光寺西遺跡と呼びます。
 ■西遺跡では、塔の跡と考えられる遺構が発見されています。東遺跡では、塔の中心の柱を支える「心礎」が出土しています。脇田神社境内では、現在でもこの心礎を見ることができます。
■地光寺の象徴である「鬼面紋軒丸瓦」は、その名のとおリ鬼の顔が浮き彫りにされた瓦です。この瓦は、県内では数箇所でしか発見されていない非常にめずらしい瓦です。鬼のデザインの起源は、朝鮮半島や中国大陸に求められると考えられています。(歴史博物館)
出典: 広報「かつらぎ」平成21年12月
禄四年の検地帳には「忍海郡脇田ノ村」とあり、検地奉行は新城駿河守で、馬場村・吉兵分・梅室少二郎分・小林分などに分かれていた。慶長郷帳には「稲田村」とみえ、福島兵部領。元和検帳では「わき田村」と出る。元和=寛永期に、脇田村・上ノ村・平岡村・山口村に分離独立する。
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脇田村は、寛永十年旗本佐久間実勝領となり、その退転後は天領となり、南都奉行中坊氏が代官として支配した。正保四年三月三日、旗本水野忠貞(石見守・水野長勝の養子)の領となり、明治維新となるまでその系統の所領として続いた。幕末にはその陣屋を西辻村においた。
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