わが街 探訪 葛城市議会議員
 吉 村 ゆ う こ
葛城市議会議員 吉村ゆうこ
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【 新 庄 】 大字名の由来

 新庄は高野街道に沿う集落でしたが、布施氏が屋敷山古墳とその周辺に新たな城を築いたことから、「新城」と呼ばれていたようです。

 関ヶ原の戦いののち、紀州・若山(現:和歌山)から入部した桑山一晴が、布施氏の新城跡に陣屋および家臣の屋敷を構築するとともに、その東方に商工業者が住む新しい城下町をつくりました。その陣屋や屋敷町、城下町を合わせて「新庄」と呼ばれるようになったとされています。

 住吉神社
(表・中・底筒男命の住吉三神を祭神としていますが、本来は桑山氏の氏神であったようで、明治初期に辨ノ庄の諸鍬神社から分離し、明治十四年に現在の場所に遷座しました。)

 町割
(丁頭の呼称が今も使われています。)

 『屋敷山古墳と新庄陣屋』
屋敷山公園にある屋敷山古墳は、なぜ屋敷山古墳というのでしょうか。 実は、古墳の上に、屋敷があったため、屋敷のあった山ということで、屋敷山と呼ばれるようになり、それがそのまま古墳の名前になったのです。 屋敷山古墳と新庄陣屋
屋敷が建てられた時期は今から四百年あまり前の一七世紀初頭頃です。
建てた人は、新庄藩初代藩主の(桑山一晴くわやま かずはる)です。
桑山一晴は、屋敷山古墳の上に、写真の絵図にみられるような、建物がたくさんある城(陣屋)、つまり屋敷を築きました。絵図の中央上側の「大奥」や「御別殿」と描かれているところが屋敷山古墳にあたります。(歴史博物館)

出典: 広報「かつらぎ」2009 6 Vol.57

 『陣屋町から宿場町へ』
大字新庄は、今から四〇〇年余り前の、西暦一六〇〇年頃に新しく建設された町です。 陣屋町から宿場町へ
町を作ったのは、関ヶ原の合戦の後、新庄付近一帯の新しい領主としてやって来た桑山一晴でした。町を作った理由は、新庄を新しい陣屋町(小さな城下町)とするためです。
桑山氏は、道穂村と桑海村から土地をさき、計画的な町割を行いました。この町割は、現在の大字新庄にもよく残っています。桑山氏の陣屋町として繁栄した新庄ですが、桑山氏が一六八二年に改易となったため、陣屋町としての役割を終えました。
そして新庄は新しく、高野街道沿いの宿場町しとて生まれ変わりました。江戸時代の終わり頃にはか、わず50日間で、五三七人の旅人新庄に宿泊した記録も残されており、新庄の繁栄ぶりをうかがうことができます。(歴史博物館)

出典: 広報「かつらぎ」2009 10 Vol.61

 

 慶長六年、桑山一晴の入部によって布施陣屋の城下町として町割された村である。  最初は新城村と称さたれたが、何時の頃か新庄村と改称された。天和二年の桑山一尹の改易で、天領となる。なお、桑山藩改易後、陣屋は永井氏の陣屋となり、文久三年まで所在した。




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