【 笛 吹 】 大字名の由来
葛木坐火雷神社(笛吹神社)が鎮座する笛吹は、葛城市の南方、大字山口と脇田の中間に位置しています。
笛吹という地名は、古代よりこの地が笛吹連の本拠地であったことに由来していると考えられています。
・葛木坐火雷神社(笛吹神社)【解説】
・鎮火祭【解説】
創建の年代は不詳であるが、社伝では神代とも神武天皇の御代とも伝える。文献の初出は『文徳天皇実録』の仁寿2年(852年)4月、正三位の神階を授けるという記述である。『日本三代実録』によれば貞観元年(859年)正月27日に従二位の神階を授けられた。延喜式神名帳では「大和国忍海郡 葛木坐火雷神社二座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。しかし、これ以降、葛木坐火雷神社についての記述は見られなくなる。社伝では、平安時代に社勢が衰え、当地にあった笛吹神社の末社になったと伝える。
■本殿の背後に古墳があり、笛吹連の祖・櫂子の父である建多析命の墓であると伝えられている。
■1874年(明治7年)、笛吹神社の末社であった火雷社を笛吹神社に合祀し、社名を葛木坐火雷神社に改め、郷社に列格した。
〜人々の身体と心を癒した施薬院〜施薬院(地光寺跡)
■葛城市と御所市との境の笛吹地区に地光寺という小字があります。100年ほど前、そこから古い建物の礎石が見つかりました。また、脇田地区の脇田神社の境内とその周りから礎石や瓦が出土したため、寺院があったという記録は見あたらないものの、このあたりに東西二つの塔を持つ古代の寺院があったと考え、地名をとって地光寺と呼ばれるようになりました。
■一方、笛吹地区にあった念珠院の由来を記した「国分尼葛城山施薬院(こくぶんにかつらぎさんせやくいん)慈光寺由緒」という記録には、天平6年(734)に聖武天皇が脇田村の西端に施薬院を建立し、葛城山から薬草を集め、医師を置き、貧しい人々を救ったと記されています。
■奈良〜平安時代には忍海郡から薬草が採取されたと伝えられ、「大同類聚方(だいどうるいじゅほう)」という平安時代の始めに編さんされた医学書には、「石積薬」「正彦薬」「田辺薬」の3種の薬草が採取されると記されていますが、「石積薬」は骨や関節の痛み止めに、「正彦薬」は精神的な疾患に、「田辺薬」は虚弱体質に効果のある薬とされていました。
■また、新庄地区にある葛木御県神社には「戞羅城薬(かつらぎくすり)」と呼ばれる虫歯に効能のある薬も伝えられていたので、脇田地区の西端から笛吹地区の東端に広がる建物跡は施薬院跡とも考えられるでしょう。聖武天皇が建立したという施薬院はなくなりましたが、忍海地方はその後も長く薬の産地になっていたのでしょう。
出典: 広報「かつらぎ」2006年11月 Vol.26
●葛木坐火雷神社(笛吹神社)公式ウェブサイト
笛吹は、古代笛吹連一族の本拠地と伝承する。江戸時代初期は、脇田上之村のうちに発展した村で、福島兵部領。元和=寛永期に脇田村から分離独立、寛永具帳には「上ノ村」とみえ、郡山藩領となる。
この上之村は、元禄郷帳ではさらに上村馬場村・笛吹村・梅室村・小林村に分離独立する。
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上村馬場村は延宝七年には幕府領領。のち郡山藩領を経て、新庄・永井氏領となり、脇田上之村のうちに発展したが、ときには上之馬場村と呼ばれ、江戸中期以降は馬場村とのみ単独に呼称された。延宝年間から永井氏領となった。
明治初期、馬場村と笛福村は合併して笛吹村となる。
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2010年9月にAPEC各国の観光大臣が葛城市(笛吹神社)を視察。
(投稿:吉村ゆうこ さん)
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